ラジオ番組「古代吉備国への旅」がはじまりました
レディオモモ79.0Mhz 毎週土曜夜9時放送中
吉備特殊器台吉備特殊器台

歴史学の専門家の議論に加え、専門外の人々も多く参加する「邪馬台国論争」も古代の覇権の所在は「九州か?」「畿内か?」の二者択一の一辺倒ですすんできた感があります。 しかし近藤先生(岡大)の研究成果などにより、古代、吉備(岡山)は日本の中心地のひとつであったことが明らかになってまいりました。本企画は吉備の存在の大きさがはっきりとしてきた今日、その論争にむかって決して絵空事ではない「吉備邪馬台国説」という一石を投じることを試みたいと思います。もちろん現在の資料で邪馬台国を特定することはどの地域においても不可能ではありますが、「謎解き」の過程において「地元吉備岡山」の本質に迫ることが多くの岡山市民(県民)の興味共感を得るものと信じています。

また、本番組を通じて岡山の文化遺産の再発見をすすめ、郷土へのより深い誇りと愛情を醸成し、ひいては県内の観光産業の興隆の一助となりコミュニティFM局の目的である「市民参加による地域への貢献」を体現できればなによりの幸いです

「古代吉備国への旅」制作実行委員会

吉備特殊器台 写真提供 「岡山県立博物館」

協力 出宮徳尚(古代吉備国を語る会代表) 曽和敏明(朗読塾代表) 青山 融(オセラ 編集長) 岡田祐來(ステージアート未来代表) 山川隆之(吉備人出版代表) フェリーペ・ナカムラ(パライスタ代表) 岡 将男(路面電車と都市の未来を考える会) 岡本宏志 ヴォイスアカデミー岡山

  MAILを送る

最近の 6

第12回「総集編」最終回 その二

第5回「古墳ってなんだ?」第6回「造山古墳は王稜である!」 web_zouzan_1.jpg

岡山市新庄下にある造山古墳は全長360m、高さ31m、全国では仁徳、応神、履中天皇陵につぐ4番目の大きさであるがその四っつのなかで築造年が最も早いと考えられています。つまり当時、日本最大の古墳であったということになります。この四大古墳のうち造山以外がみな天皇陵とされて陵墓参考地なのになぜ造山は自由に入れてしかも未調査なのでしょうか?つまりは宮内庁の見解として天皇家とは関係がないといっている訳ですが、ではいったい誰のお墓なのでしょう?

造山古墳は、風水観からも王稜にまちがいありませんし、備前最大の両宮山古墳も二重周濠をそなえた、これも王稜です。ではこの二つは天皇の稜なのでしょうか?かりに天皇陵であるとすれば、その天皇はとてつもなく吉備に縁のあった人物ということです。また、天皇でないとすれば天皇勢力に拮抗して王を名乗る人物とその勢力が存在したということになります。

造山古墳の前方部に放置された石棺は阿蘇の石で作られたことで有名です。 また先年、中国洛陽の李徳方氏を招いた時、氏はこの造山古墳を一目見て「これは王稜の位置にありますね」、まさに中国で風水に言う「臥龍の形」をなしている・・と言われたそうです。つまり、九州との関係が深く、しかも中国思想に大きく傾倒している人物の墓といえます。

後に雄略天皇が中国人を重用することや、100年後の古墳が風水に従って造営されることなど、この吉備の巨大古墳との関係を深く考えないではいられません。

第12回「総集編」最終回 その一

第12回「総集編」総まくり

いよいよ、最終回を迎えました。ということで過去の放送のまとめを試みたいと思います。

第1回「稲作の伝来」

長江(ちょうこう)下流域の河姆渡(かぼと)遺跡では、約7000年前の層から大量の稲籾や米粒、農耕具等が発見され、既に水稲農業が行われていたのです。一方、長江中流域においては、彭頭山(ほうとざん)遺跡で、1986年に、河姆渡遺跡よりもさらに遡る約8000年前の稲籾が発見されました。このように長江下流域よりもさらに中流域で発見された年代の方が古いため、現在では長江中流域起源説が有力のようです。

縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土しました。同時期の朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目ですが、今回は大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」とされています。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、長江流域からの直接の伝来も視野に入ってきました。

魏志倭人伝に語られた倭人の習俗はこの長江流域の文化圏に近いと認識されており、いわゆる海人族の文化が色濃く「邪馬台国」反映されていていいはずです。

第3回「吉備特殊器台」4回「楯築弥生墳丘墓」 kidai.jpg

特殊器台(とくしゅきだい)は、弥生時代の終わり頃(2世紀末〜3世紀)に吉備地方で作られた葬送(そうそう)用の特別の器台(壺などをのせる台)の形をした土器です。古墳時代になると特殊器台は、吉備地方だけでなく、箸墓古墳などを代表例として、畿内の最古型式の前方後円墳からも出土します。その形態は器台としての機能を完全に失い、むしろ円筒埴輪の類に入り特殊器台は円筒埴輪へと変化していくのです。この様な特殊器台の変化は、墳丘墓から前方後円墳への変化の過程、さらには弥生時代から古墳時代への変化の過程で起きており、時代の変革を説く鍵となっています。

岡山市と倉敷市の境にある楯築遺跡は3世紀前半の遺跡で古墳につながる日本最大の弥生墳丘墓です。ここでは特殊器台も 発見されましたが、この神社のご神体である亀石には、不思議な模様が描かれていました。近藤義郎教授によれば、この石の模様、「弧帯文(こたいもん)」が、後に纏向遺跡で発見された円盤の模様「直弧文(ちょっこもん)」、の源流と思われる、と指摘されており、吉備と纒向の関係がさらに注目されます。

つまり古墳時代の源泉は吉備にあるということです。しかも最も重要視されるべき祭祀道具に吉備が採用されている点で、「連合のあかしとして採用された」とする畿内説の説明には特段の根拠は感じられません。

写真「吉備特殊器台」岡山県立博物館蔵

第11回「総集編 前編」

これが、お手製(岡製)Mapだ! kodai_map.jpg

いよいよ「古代吉備国への旅」も大団円の一歩手前までやってきました。はじめてお目もじいたしますが、こちらがパーソナリティの沼澤さんと岡さんお手製の「古代吉備立体地図」です。放送内でも話題となっていましたが、Map右側中あたりの緑の島のような所が操山です。そしてその北にひろがるのが竜の口山麓までひろがる平野部というわけです。ここには百間川の遺跡をはじめ備前国府跡、総社宮、そして「備前車塚古墳」など、古代吉備の遺跡、史跡がてんこもりのエリアといってよいと思います。さてここにどれほどの水田などの耕作地がひろがっていたのでしょうか。

この平野部には現在も旭川から水を引き入れて用水として利用されています。その引き込み口は「祇園疎水(用水)」として全国的にもきれいで有名な疎水です。その現場にいきますと近代設備はみあたりません、つまり昔からある堰であるということでしょう。ではどの位、昔からあったのでしょうか?わたしは弥生時代から存在したのではと思います。

デニケンのご縁でついに出会う

文明宇宙人起源説というデニケンの説が、一世を風靡したころ、これに深く刺激を受けた青年二人が、この古代吉備のスタジオで必然とでもいうべき出会いを果たしたということでしょうか?青山さんと岡さんのSF的新解釈「温羅伝説」で盛りあがりました。

また、パレンケ遺跡の宇宙飛行士ですが、リンク先の映像を参考にみなさんも是非一度ご覧ください。あなたにはどうみえますか?

第10回「倭文神社」

倭文神社は織物の神様 07-Dec.18 伯耆一宮倭文神社

倭文と書いて「しとり」(しどり、しずり)と読み、古代日本製の絹などの織物を指します。右写真は鳥取県倉吉市の東にある東郷湖のほとりに静かに建つ伯耆一宮倭文神社であす。このおりは単に一宮巡りの一環として午に鳥取の宇部神社を訪ねた後、午後日の傾きかけた頃に到着した時のもので、当時読み方もご祭神などの由緒も知らぬ状態でした。がしかし、ここがことのほか重要な場所であることにやっと気がついたのです。

我々がぼんやりと習ってきた日本の歴史といえば、先進文化はすべて中国朝鮮から学んだものですべてに遅れていたと、そう思い込んでいました。しかし、そう単純なものでは無さそうです。まず言葉(言語)の問題を探ってみます、すると日本語は北方民族系で、バイカル湖周辺を出発点とした言語に近く、その文法のうえにアジア南方系の単語が進入融和してできているといいます。つまり思いのほか中国語、朝鮮語との関係が薄く、久米倭文神社文化的かつ政治的に中国、朝鮮の圧倒的影響を受け入れたのであれば、日本語はもっと別のものになっていたはずなのです。縄文時代から北方南方の文化を基盤として大陸文化を消化してきたといえます。そんな中、秦の始皇帝が蓬莱の国(理想郷)と信じ、不老長寿の薬をもとめて徐福を送り込んだのが倭ですが数千人も連れてきたというのですから、これは使節というより進駐軍か移民団のようなものでしょう。これが秦氏のはじめで機織り(ハタオリ)を伝えたという説などもあります。一般的には神功皇后が導入し仁徳天皇が国中に広め振興したというのが定説ですが、それより前から倭(日本)で上質の絹織物が生産されていたのではと思います。

過去、岡山の久米郡(現津山市、美咲町)に倭文村(現津山市油木)が存在しました、ちなみに隣が大倭村(やまと)です。ここに延喜式内社ではないのですが、倭文神社があります。(Wikipedia)で倭文神社をみると全国に十七社が書かれておりそのほとんどが現在も繊維産業の盛んな場所で、古代より倭文部の粗神である「建葉槌命(天羽雷命)」を奉ったもの、この倭文神社も同様で、なんとすぐ隣の字(地名)が「桑」です。

「こんな田舎にもその昔は繊維産業があったのか!」というだけではないことが「久米郡史」に書かれていました。倭文五社弊頭為貞國太夫より神祇官への書状に「当社は人皇十代崇神天皇の七年十一月丁卯、神地神戸を定められ、この時よりの御鎮座に御座候」とあります。また、本多応之助の「倭文往来」の中に「往昔は日止里神社と称し奉り。倭文本宮と唱え尊崇し奉ると旧記にこれあり、何時頃に至りて五宮と席下り、其のいわれ知るべからず。」となっています。つまり、十代崇神天皇の七年十一月(紀元前後の弥生〜古墳時代)にできて「倭文本宮」と呼ばれていたということになるのです。

両山寺

ここ久米から北に上り奥津を経由、または湯原(神湯村)を経由して川沿いに日本海に向かうとそこには東郷湖(池)があります。つまりここ大倭の倭文を積んだ貿易商隊(キャラバン)が積出港である東郷湖に向かう姿がはっきりと見えてくるようです。[この説は新しい日本の歴史に詳しく説明されています。]

奈良の葛城にも倭文神社(葛木倭文坐天羽雷命神社)があり、そのHPによると全国の倭文神社の根本社と名乗り、その背後の当麻寺で有名な二上山の雄山を神奈備山としています。そのサイト内に倭文サミットに関する愉快なエピソードが載っています、つまり他の倭文神社がここを根本社とは思っていないのです。普通同じ名前の神社の場合由緒の中に「どこそこから勧請された」と書かれているケースは多いのですが。じつはここ久米倭文神社の南にも同じ二上山があるのですが偶然ではなさそうです。(右写真はその中腹にある真言宗「両山寺」である)

二上山の東南の麓に「誕生寺」というお寺がありますが、この地に生まれた浄土宗法然上人にちなんだ寺で法然上人霊蹟一番札所です。そして九番札所が「当麻寺奥の院」で葛城の二上山にあります。法然は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使、漆間時国(うるま ときくに)と、母、秦氏君との子として生まれるのですが、この秦氏の祖は仁徳朝阿知使主が率いた漢民で、技術にすぐれ綾錦(あや)の姓を賜ります。このとき秦の一族は綾錦の長となり、部民を率いて美作国久米郡に移り、法然上人の母はその一族から出た人といわれています。(浄土宗大辞典より)。つまり仁徳云々はともかく法然は秦氏(倭文部)の血を引き、なぜかその二つの二上山の麓に倭文神社があり、そして盆地をはんだ反対側には三輪山があるのです。

備前車塚古墳は竜の口の山の上 備前車塚古墳

備前車塚古墳は墳長48.3m、後方部長23mの前方後方墳で三角縁神獣鏡が11面出土している重要な古墳です。岡山市内の高島や備前国府の跡(古代での存在は不明)の近くの四御神にある団地の奥にその登山口はあります。この山は竜の口山と呼ばれる257Mの山でその中段100M位のところで南面の景色のよかったであろう(いまは木がじゃま)場所に造られおり、青山さんのおっしゃる「よい場所」です。

竜の口山は「竜の口グリーンシャワー公園」として整備されていて快適な山歩きコースになっており、30〜40分で山頂展望台に到着、ここからの景色がよくてすぐ南に操山さらにその向こうの貝殻山がはっきりとみえます。

shinogoze_course

下りの四御神コースをおりると、このコースは一瞬県北の深い山を歩いていると錯覚するような景色がつづき、途中、古墳群もあり寄り道しながらゆっくりと歩くと出発地の車塚公園に1時間くらいで帰着します。

備前車塚古墳の神獣鏡の出土、特殊器台埴輪がなくその山の名が「竜の口」という点から極めて中国色の強い性格のものだなという感想です。

竜の口山四御神コース

第9回「三国史記」

「三国史記」

(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾らが1143年に執筆を開始し、1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の正史である。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。全50巻。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「三国史記」(新羅本紀)
『57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり』
とあります。丹後の宮津、籠(この)神社に「海をわたって新羅の王になったものあり」との伝説もあり、この多婆那国は「丹波国」で間違いないでしょう。すると、その南西千里とは現在の相生から備前のあたりがもっとも妥当であると思いますし、魏志倭人伝の項で示した、一万二千里の距離感とも一致します。

籠(この)神社は天照大神を祀る前にここにおいたため元伊勢と呼ばれており、国宝の累代宮司の海部氏系図や藤原佐理筆の篇額、最古の伝世鏡など、貴重な社宝を多く収蔵している、古代からの重要な神社でもあります。

先生にきいてみよう「雄略天皇、稚媛伝説」岡 将男さん

岡さんの小説「勾玉の首飾り」の話題を中心に雄略と吉備との関係をさぐります。

古墳の達人「吉備の中山界隈」青山融さん

吉備津神社、吉備津彦神社の境内に存在する古墳、神社と古墳の関係とはなんなのでしょうか?山の上には吉備津彦の御陵「中山茶臼山古墳」があり、宮内庁による陵墓参考地となっています。

また、中山の南嶺にある矢藤治山古墳は弥生と古墳のハザマに存在する前方後円型の墳丘墓ですが、そうなれば、弥生時代に古墳の原型が吉備に生まれていたことになる、という貴重なものです。

岡山県古代吉備文化財センターもこの吉備の中山にありますが、その貴重な収蔵品のなかから、吉備の陶棺について触れてみました。この陶器でできたお棺、「陶棺」は倉敷考古館長の間壁忠彦氏と・葭子夫人共著 『吉備古代史の未知を解く』によれば、「焼き物の棺は、全国的にみても、その7〜8割に当るものが、岡山県下で発見されている。しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも、後の美作となる地域に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」だそうです。この部分を引用しながら陶棺ユダヤ人説を大橋氏が主張しています。これは「田村誠一氏の説」を検証している訳ですが、東京国立博物館に所蔵されている陶棺「寒羊図」の写真(岡山県美作町平福出土)がありますので見てください。東京国立博物館に尋ねたたところ「この2匹の動物は馬だろう」との見解でしたが、こんなに尾っぽの大きな馬はみたことがありません。これは中国に存在する「大尾寒羊」だと思います。「寒羊」とはイスラエル原産のしっぽの大きく太い種類で古代中国にも確認されておりユダヤ人と中国の関係をうかがわせ、また尾は劣悪な環境に耐えるために脂肪が蓄積されたもので「脂肪羊」ともいわれます。もちろん羊はユダヤ人にとって神の使いです。そして上部に三つの山なみのような波型が見えるますが直感的に蒜山三座だと思いますがいかがでしょう。

また、鳥取県の青谷上寺地遺跡で木製の琴の一部が出土していますが、そこに施されている動物らしき模様は「羊」としかいいようがありません。また、弥生時代ころには鳥取と美作(当時は吉備)は距離も近く深い交流があっただろうことは容易に想像できます。

第8回「和歌森太郎」

吉備の国学園「和歌森太郎」

和歌森 太郎(わかもり たろう、1915年(大正4年)6月13日 - 1977年(昭和52年)4月7日)は歴史学者、民俗学者。リベラルな歴史学者として知られ、戦後の教育改革で新たに設置された教育科目「社会科」の教科書を最初に執筆したことでも知られる。教育大時代には文学部長も務めていたが、同大学の筑波移転には強い反対の立場をとっている。移転反対派の牙城であった文学部においてもその旗手として論陣を張るが、評議会や理学部を中心とした推進派との対立から1966年には学部長を辞任している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

和歌森太郎は著書「和歌森太郎著作集4 古代の宗教と社会」のなかで邪馬台国論を述べています。「魏志倭人伝」を丹念に読み込み、冷静な分析を旨としている様子で、その里程の解釈から、「九州にはとどまらない」と、まず「九州説」を否定しています。また、海人族に縁のあるという観点から海沿いに想定し、その人口が7万戸というのは実数はどうあれ、倭国で最大の人口を有した都である点から、弥生遺跡の充実したエリアを注目すべきとしています。そして、その結論として「吉備から播磨の瀬戸内沿い」が邪馬台国の所在地として最もふさわしいとします。

「先生に聞いてみよう」岡 将男氏 登場

岡氏は「RACDA(ラクダ)路面電車と都市の未来を考える会」の会長として活躍する、岡山きっての論客ですが、くわえて歴史の造詣も深くアマチュアならではのなにものにもとらわれない自由な発想が持ち味です。

古墳の達人「両宮山古墳」「石清尾山古墳群」青山 融さん

吉備のもうひとつの謎の巨大古墳「両宮山古墳」と高松の代表的な古墳の山「石清尾山古墳群」の紹介です。

石清尾山古墳群Map


大きな地図で見る

以前のログ