Jul 05, 2008
第9回「三国史記」
「三国史記」
(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾らが1143年に執筆を開始し、1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の正史である。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。全50巻。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「三国史記」(新羅本紀)
『57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり』
とあります。丹後の宮津、籠(この)神社に「海をわたって新羅の王になったものあり」との伝説もあり、この多婆那国は「丹波国」で間違いないでしょう。すると、その南西千里とは現在の相生から備前のあたりがもっとも妥当であると思いますし、魏志倭人伝の項で示した、一万二千里の距離感とも一致します。
籠(この)神社は天照大神を伊勢に祀る前にここにおいたため元伊勢と呼ばれており、国宝の累代宮司の海部氏系図や藤原佐理筆の篇額、最古の伝世鏡など、貴重な社宝を多く収蔵している、古代からの重要な神社でもあります。
先生にきいてみよう「雄略天皇、稚媛伝説」岡 将男さん
岡さんの小説「勾玉の首飾り」の話題を中心に雄略と吉備との関係をさぐります。
古墳の達人「吉備の中山界隈」青山融さん
吉備津神社、吉備津彦神社の境内に存在する古墳、神社と古墳の関係とはなんなのでしょうか?山の上には吉備津彦の御陵「中山茶臼山古墳」があり、宮内庁による陵墓参考地となっています。
また、中山の南嶺にある矢藤治山古墳は弥生と古墳のハザマに存在する前方後円型の墳丘墓ですが、そうなれば、弥生時代に古墳の原型が吉備に生まれていたことになる、という貴重なものです。
岡山県古代吉備文化財センターもこの吉備の中山にありますが、その貴重な収蔵品のなかから、吉備の陶棺について触れてみました。この陶器でできたお棺、「陶棺」は倉敷考古館長の間壁忠彦氏と・葭子夫人共著 『吉備古代史の未知を解く』によれば、「焼き物の棺は、全国的にみても、その7〜8割に当るものが、岡山県下で発見されている。しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも、後の美作となる地域に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」だそうです。この部分を引用しながら陶棺ユダヤ人説を大橋氏が主張しています。これは「田村誠一氏の説」を検証している訳ですが、東京国立博物館に所蔵されている陶棺「寒羊図」の写真(岡山県美作町平福出土)がありますので見てください。東京国立博物館に尋ねたたところ「この2匹の動物は馬だろう」との見解でしたが、こんなに尾っぽの大きな馬はみたことがありません。これは中国に存在する「大尾寒羊」だと思います。「寒羊」とはイスラエル原産のしっぽの大きく太い種類で古代中国にも確認されておりユダヤ人と中国の関係をうかがわせ、また尾は劣悪な環境に耐えるために脂肪が蓄積されたもので「脂肪羊」ともいわれます。もちろん羊はユダヤ人にとって神の使いです。そして上部に三つの山なみのような波型が見えるますが直感的に蒜山三座だと思いますがいかがでしょう。
また、鳥取県の青谷上寺地遺跡で木製の琴の一部が出土していますが、そこに施されている動物らしき模様は「羊」としかいいようがありません。また、弥生時代ころには鳥取と美作(当時は吉備)は距離も近く深い交流があっただろうことは容易に想像できます。
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